COLUMN

子どもと広げる 山の地平

親子登山へのいざない 子どもと広げる、山の地平
子どもは、子どもの感性で山を登る。
直感的な身体、裸の感性が見つけるのは
山がもつ、果てしない地平だ。
親子登山は、子ども、大人も、発見に満ちた山になる。

戸高雅史=文・監修、星野秀樹=写真、蓑和田一洋=構成

 

親子登山へのいざない 子どもと広げる、山の地平

森を抜けるとそこには広大な世界があった。目の前に頂が「おいで」と呼んでいる。「少し休んでゆこうか」と声をかけようとしたとき、娘は勢いよく登りだした。

後ろ姿が弾んでいる。こちらまでうれしくなってきた。雲が湧いては消え、風がながれ、光が反射する。私たちも、後に続く。

一歩、一歩。ひと息、ひと息。次第に意識のなかが空っぽになり、目の前のひとコマひとコマがスローモーションのように過ぎてゆく。体内の細胞が躍動し、ゆっくりと何かが満ちてくる感覚。いま、こうしてここにあること、登ることがこんなに楽しいなんて。振り返り、彼女がささやいた。「なんて、気持ちいいんだろう」。

 


 

親子登山という 新たな世界

私たちは普段、強い目的意識をもち、いかにうまく効率よく達成するかを意識しているように思います。社会生活のなかでは大切なことでしょう。しかし、自然のなかでも常にそのような意識で行動するとしたらどうでしょう。常に登頂(目的)を意識し、行程やペースを考えながらがんばって登る。

もちろん、登山にそのようなスポーツ競技的な要素があることは了解しています。しかし、なにか窮屈な感じがしませんか。

今回は、もう少し自由でしなやかな親子登山の楽しみ方について、新たに身体という地平からふれてみたいと思います。

 


 

身体からの体験

私たちが外界にふれるときのセンサーってなんでしょう。視 、聴き、嗅ぎ、味わい、ふれるという五感。それらを含めて実際に外界にふれ反応する総体としては、私たちの体そのものがセンサーといってよいでしょうか。その感覚の総体を「身体」といいます

意図的に何かをしようとしているとき、感覚すなわち身体は思考の制御下にあります。センサーとしての身体の自由度は少し閉ざされている状態。

もし、身体が目的意識から開放されたとしたら、どうでしょうか。コントロールする意識が外れたとき、それは写真の感光板に例えればなにも写っていないまっさらな状態。そのときなにげない微細な光さえもが写るように、センサーである身体を通して外界から色や匂い、肌にふれる感覚や水の味わい、鳥のさえずりや木々のざわめきなどそれこそ多種多様な自然があざやかに飛び込んでくることでしょう。それに私たち個々の身体が刻々と反応し、徐々に動きはじめる。それは本能としての身体であり、どんな思考にも依拠することなく、いまここに直接に関係しています。まさにその瞬間の体験から、感動が生まれます。

インターネット等を通していくらでも簡単に意識に情報の入ってくる時代。だからこそ、意識や思考を通してではなく、直接にひとりひとりの身体を通しての体験は重要になっています。それは、子どもにとって揺るぎのない感覚を育むとともに、自らの感覚に立ち、彼らの世界を歩む源泉ともなるに違いありません。

 


 

子どもたちが教えてくれる山

清らかな水が流れ、草花の匂いが満ち、稜線に出れば風が吹き渡る。身体からの体験は、瞬間性に満ちた山のなかでさらに生きたものになってゆきます。子どもはその天才。

私たち大人は長い年月をかけて様々なものを習得し、記憶し、意識のなかに蓄えてきました。それゆえ、常にそういった意識(過去)が介入し、いまその瞬間から切り離されてしまいます。

その影響が少ない分、子どもは「いま」に生きることができるのです。自然や山のなかに入ったとき、本来の身体が十全に働き、彼らはすぐにあたかも水を得た魚のように反応してゆきます。足場のわるい道や下りでのなめらかな動き。草原ではさっと寝転んだり、森では生き物の気配に敏感になったり……。

それは教えられたりするものではなく、自発的に生まれる動きです。彼らの心に映る世界は、生き生きと輝いています。

その地平に立ったとき、大人もきっと同じ。そのとき、見慣れた光景さえもが一瞬一瞬、新たな世界として表われてくるに違いありません。

もちろん、経験、知識、技術は重要です。しかし、それらは、どちらが上位というわけではなく、持ち場があります。必要なときに働き、それ以外の場面ではその意識が静まっているような状態が理想なのかもしれません。

その意味で私たち大人と子どもがともに行動することは互いのよさを活かしながら相互によい影響を生んでゆく可能性があるのです。

 


 

「いのち」としての山

自ずから然しむ。自然をこう読むと山や花など対象物そのものよりも、それらをそうならしめる「働き」が感じられる気がします。その働きを私は「いのち」と呼んでいます。

それは私たちにも働いている。岩山に捩れて立つダケカンバ、鞍部をなめらかに越えてゆく雲。轟音を響かせて水しぶきをあげる滝、長い年月をかけて高山に咲いた一輪の花。ダイナミックな動と静。一瞬一瞬、常に変化し、けしてとどまることはありません。ゆったりと逍遥したくなる場もあれば、一歩足を踏み外せば滑落してしまう張り詰めた世界もある。

そうした山のなかに入ることで、自他のいのちといのちが響きあい、生き生きと輝きだすことでしょう。

 


 

親子登山をするにあたって

山に登るには、事前の計画や準備が大切です。直前には天候や山の状況、体調なども考慮。実際の山のなかでもそれらについて考える場面が起きてきます。経験、知識、技術によって対処してゆく登山の重要な面です。

そこでは究極的には「何を大切にするか」が問われることもあるでしょう。状況を認識する上では身体を通しての感覚が基底になることはいうまでもありません。

たとえば雨や風。厳しく感じる場合もあれば、心地よく感じる場合もある。それによっても行動は変わってきます。森林限界を超えてどれくらい行動するか。目的地に行くことがテーマなのか、天候も含めて楽しむことがテーマなのか。

登山においては、意識的な活動と無意識的な身体からの反応とが互いに織り成しながら進んでゆきます。まさしく登山の醍醐味であり、魅力ですね。

 


 

危険への対処

危険に対しては事前に想定し準備しておく面と、実際の場で瞬時に生まれる時間差を伴わない反応があります。

親子登山の場合、前者は親にかかる割合が高くなりますが、後者はつまずいたときに態勢を立て直したり、落石を避けたりなど、ひとりひとりが自らの身体感覚に立ち、瞬時に反応し行動する基本的なものです。

この後者の感覚は自然のなかでの活動で欠くことのできない力であり、私たちに生まれながらに備わっている感覚です(体験により身体感覚と動きが一致し、さらに深化してゆきます)。そのおおもとは、危険に対してのみならず「なんてすばらしいんだろう」と感じるところと同じ。感動する心は危険をも察知し、反応へとつながります。

 


 

子どもと山へ

子どもと山をともにすることで生まれる共感。それは家族というチームにとってかけがえのない体験です。

お互いの成長とともに回を重ね、訪れる山も含めてさらに深まってゆくのも楽しみですね。どうぞ、この夏ぜひご家族で山にお出かけください。

 



戸高雅史(とだか・まさふみ)
1961年生まれ。福岡教育大大学院修了。18歳から登山を始め、96年にK2無酸素単独登頂。現在は、小学生から大人までの自然体験ガイドを主催。子どもの世界観に立った登山体験を大切にする。大宰府の森ん子保育園、東京都立清瀬高校などで授業を務める。
http://masa-fos.com

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